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ささ哲

情報化社会の到来は
日付
2012年12月30日(日) 07時41分
あるゆる囚われ方から解放される時代の到来なのかもしれない。

informationとは、心に形作るもの、である。
情報の本質がひとたびわかってしまえば、
そして、
情報処理の本質がひとたびわかってしまえば、
私たちはあらゆる囚われ方から自由になり始めるだろう。

みんなが自然に聖人になってきてしまうかもしれないとすら思う。

みんなが、こうでなければならない、という考え方を嫌うようになったのはその兆候かもしれないのだ。完全なる自由を求める。そのこころは聖人と同じだ。心身の自由、魂の自由。

哲学の本質は情念(欲を含む。気または量子情報のことだと僕は思うが)をいかに統御するかであると僕の信頼する(大学の)哲学の先生は言っていた。

僕は若干違うかもしれない。
統御する、はある意味自分を自由にするかもしれない。
しかし、統御にこだわることもとらわれである。
統御にこだわることで統御に失敗する。
そのことも含めて統御と呼ぶなら、僕は賛成だけど。
先生はたぶんその意味も込めて言ってそうなのだが。

情念の統御という言葉は物理をやってる僕流に(還元主義的ではあるけど)量子情報を自在に操ること(操り方自体を自在に変えることも含めて)と考えるの一つの試案だ。
確かに情報の本質はミクロに還元されるべきではない。
しかしぼくは、人間が生身で(体内で)行っている情報処理は、本質的には量子情報処理であると信じる。

心を物質として捉えたくない、というのも自由である。
ただ、そういう場合、心は高尚で物質は下等という印象が影響している可能性があり、実際そうである以上、心や魂がたとえば量子論的に語りうる、つまり自然現象でしかないというとらえ方は一般的な人々に悪い影響があるかもしれない。
自由意志という考え方も時代の遺物となるかもしれない。
自由意志は近代の生んだ概念だったかもしれない。
(原子論的な発想だと聞くが、じゃあなおさら自然現象なんじゃといいたくなる)
しかし、自由意志という概念自体が自然発生的だったかもしれない。

 つまり、極論を言えば、人間の世界も自然現象という大きな物語の一部にすぎないというとらえ方が可能かもしれない。
 二元的な時代が一元的な時代になる、それ自体が物語だという説がある。陰と陽の動きと捉えると、東洋的には自然な発想だ。
 そもそも、心が物だとわかったらヤダっていうのは、二元的に心と物を分けたうえでの話なんだから、ある種のアポリアに陥っているとみることもできなくはない。

 量子論で心が量子だと言ったら非難されたとしても、
量子が僕らが昔から思い描くような物質とは異なることがわかっていて、波動でもあるのだから、心が波動であるといえば納得するのだろうか。それでは単に理解が不足していただけということになる。

 心のエネルギーという表現は一般に受け入れられやすい。じゃあ、物のエネルギーと心のエネルギーが本質的に異なるとするのはそんなに意味のあることだといえるだろうか。むしろ、その保証がほしくなる。

 心と物を分けるという前提。それがなかったら、と考えると、エネルギーはエネルギーだ、と捉えるのが自然だ。
量子は今まで抱いてきた物質概念とは異なるのだから心と物を統一的に扱う概念の候補の一つとしてみるの悪くないといえないだろうか。

 科学者は、思想は思想であり、科学とは違うという。
しかし、どちらも情報を扱っていることに変わりはない。
要するに、実りの多い信頼のおける確たる情報を得ることが大事なのだ。それを生み出したり、確証を与えたりして、その結果、人間の生活を心身両面について豊かにする存在として思想や科学が、その意義を持っているといえる。逆に、そういう存在として思想や科学という知恵を定義するほうがいいとさえ思う。科学の暴走が人間に不幸をもたらすとすれば、そんなのは知恵とは呼べない。もろ刃の刃という凶器だ。情報を統御しているといえるだろうか、いや言えない。
やってみなければわからない、という言葉はかなり無責任だろう。

 それでも人間はやってしまう。そういうサガなのかもしれない。そういう風にしか前に進めないのかもしれない。一寸先は闇だ。でも人間にとって生きている限り思考というものは歩行以上に止められないものである。つまり、人間は本質的に前進しかできたことはない。しかも、思いついたことを実行しないのはこの上ない苦である場合が多い。となると必然的に人間は危険にさらされることになる。このとき人間の身を守っているのは、やはり直観なのだろう。直観は宇宙全体とつながっているようだからだ。つまり、全体を感じ取る力が人間には備わっている。というかそもそも自然と人間はひとつながりなのだから、この世界がそうできているといってもいいだろう。

 このあたりの仕組みを解明することが世界を窮地から救うのではないかと思ったりする。全体視の解明。量子情報理論が一役買いそうだ。いや、(量子)情報道がかな?(笑)
Creation=Ryonuku
素晴らしいです。そして、普段私が便宜上「エス」と呼んでいるものは、教授の言われる「情念」に当たるのかもしれません。
ローマン・ささ
2012年12月31日(月) 00時11分
今日、「概念の本質は、名詞ではなく動詞である」という内容になろうかと思われる評論を読みました。我々は、時間とともに「動詞」を「名詞化」してきたということでした。
ローマン・ささ
2012年12月31日(月) 00時15分
そうかもしれんなあ。たぶん。


う~ん。僕もそうだと思うなあ。
概念の本質は僕的には、生きた量子情報、すなわち、イメージだ。ダイナミズムをもつ集団的な量子情報とでもいうかな。情報処理とも言いたくなる。

理論の正しさはそのまま理論の生命力とでもいうべきものだろう。ロゴスは競合しながらその生命力を競ってきたところに健全性があると思う。宗教の伝わり方の一方向性の不健全性と対照的だ。もっとも、宗教も、真理はつねにひとりひとりが新しい表現を見出していくものだと考えているようだけれど。

 例の高校の先生も数学や物理の公式にはパワーがあるといっていた。僕的には世の中のエントロピー(無秩序さ)を下げるのに役立つという意味の仕事をするパワーだと理解してるんだけど。
 よりその統御力の強い理論が生まれるとそれにとってかわられてきた。
 が、理論や公式は人々の中に息づいているからこそ、存在しているわけで、静的なものに見えても、やはり動的なのだと思う。つまり、さっき言ってた教授が言っていたことだが、思想とは、または知恵とは「はたらき」なのだ。
 そして、ぼくはその「はたらき」は、自然とつながっていると思っている。すなわち、それこそ自己組織化なんだと。またの名を神の恩寵(笑)という!
Creation=Ryonuku
2012年12月31日(月) 02時34分
史上最大の数学者ガウスも自分の最高の理論は神の恩寵により完成したといっている。

知恵は自我の働きだけでは完成しない。たいてい自己組織化を必要とするのだ。つまり、自然の働きが多くを占めているのだろう、とおもっている。だから、egoとselfの調和する生き方が理想的なんじゃないかと思ったりする。
Creation=Ryonuku
2012年12月31日(月) 02時37分
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