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ささ哲

正しいとは
日付
2011年08月29日(月) 21時47分
何かの言明を正しいと言ったとき、そうでない内容の言明は正しくないこと になる、という考えは正しいでしょうか。 ぼくがこれから述べる論も正しいと思って述べるわけですが、 結局それに反する考えは正しくないのでしょうか。 この事柄に対する答えは言葉で答えることは可能なのでしょうか。 カントの三批判の著作(純粋理性批判を含む3つ)のどこかにありましたが、相 反する命題に対し、それぞれに、「正しい」証明が述べられている部分があ りました。 西田幾多郎の絶対矛盾の自己同一命題、すなわち、 「Aは非Aであり、それによってAである」 によって導かれる結論も似た感じになりそうです。 つまり、何事も、正しいと断定できない。 そして、その事自体も断定できない (断定できないということも断定できない、ということも...[無限ループ])。 なんだか子供たちの言葉遊びみたいですね(^o^;) 僕がこの事から感じて思ったことは、 考え、というものは、すべてベクトルを持つものである (もちろん、持たない場合もある。 つまり、反対方向のベクトルであったり、 ゼロベクトルであるかもしれない)。 しかし、ゼロベクトルの言葉というのはたぶん無いんじゃないかと思うんで す。つまり、無、とか絶対無、とかいうけど、その言葉に自分が付随させて いるイメージや考えなどの体系がぼんやりと思い浮かんでしまう。これがベ クトルになってしまう。無の概念に対する正確な把握があればベクトルを持 たなくなる可能性はあります。しかし、原点さえないのが無かもしれないの です。実際僕はそうだと思います。原点がないというより、それが定まらな いのが無であるのか。それはわかりませんが。

ぼくは、この考えの持つベクトルの方向性に対して自由になることが(その方 向性にとらわれないでいることが)悟りであるのだろうとおもいました。 ここで、自由でなければ悟りでないと言うのか、といえばこれは、 自由でない状態を選択できる自由が必要、という、結論になるかもしれませ ん。つまり、思考を出発させる原点も定まらず、考えの持つベクトルにもと らわれない、またはわざととらわれることもできるような自由、そういう大 いなる自由。プラスにもマイナスにも自由、あらゆる方向軸にたいして。 この状態に達することが目標であるなら、やはり、考え、思考というものを やめなければならないでしょう。
Creation=Ryonuku
というより、常にわいてくる言葉たちに対して、自由に精神が振る舞いうることが大事だと言うことになります。
とてもむずかしいことのように思いますが。
Creation=Ryonuku
2011年08月29日(月) 21時51分
どこか、これは思想というか、実践哲学というのでしょうか。
要するに僕は仏教の心を語ったつもりなんですが、仏教は実践しなければ意味がないと言う意味でまさにそれでしょうね。
仏教とは「正しさ」とか、「正しい価値判断」などから、自由になる、とらわれない。普遍性を排し、多様性を容認することで世間一般に受け入れられた思想、と言えるでしょう。つまり、自己と他者を認知認識し、容認し受け入れることで、逆説的に人々に受け入れられた(ただし、そこにはちゃんとした多くの人が納得する合理性があったがゆえにこそ、受け入れられた。また、多くの人の経験とたがわなかったから、とも言えるかもしれませんが)
Creation=Ryonuku
2011年08月29日(月) 22時04分
なるほど。アイデア自体にはとても納得しましたし、何より共感しました。ただ、その後の方向性については、それぞれの方法で歩んでいくように思います。
ローマン・ささ
2011年08月30日(火) 21時26分
大いなる自由に達してしまった人はね、たぶん、天命を知ることになると思うんだ。自己が認知され実現されるということは、自分に本来的にかせられた使命を悟ることでもあると思う。自分が人生でやるべきことがわかるんだろうと思う。

それは自分の精神が円満に実現されたときのバランスが指し示すところのものなのだとも思う。ぼくにとって、理論を極めることが、それなのかもしれないと思ってる。具体的には特に宗教理論としての情報理学の建設を実現することが目標になってる。

もっと言えば、東洋的な格物致知、すなわち豁然貫通または脱然貫通の実現が究極の目標。一切知とでもいうのか。万学専門の実現の可能性がここにある。
Creation=Ryonuku
2011年08月30日(火) 22時56分
「宗教理論としての情報理学の建設」ですか。とても素晴らしいアイデアですね。私も、自分の限定的関心を「物語論の応用としての文化哲学(民理哲学)の構築および、解釈学的転回の遂行」と「近未来に通用しうる医療の土台(医療哲学)の構築と、『病気』や『老い』についての新概念を含む新体系における物語論からのアプローチ」の2つに分類しています。

前者は大学時代から、後者は大学院以降に取り組む予定です。

亮さんと同じくがんばれたらいいな~と思います。
ローマン・ささ
2011年09月01日(木) 00時18分
ほめてくれてありがとう。だけど、君の人生がそこまで確定的かどうかは...どうかなあ(笑)
ぼくも、大学入った頃は何事もなく9年でドクター終了して助手になってるつもりだった。ここまで人生は先が読めないものかと、まったくまじめに信じられない思いです(苦笑)経験にいい悪いはない。哲学屋さんのことばだ。何が起きても糧とできる心構え。実現に一歩近づいたつもりです(笑)
Creation=Ryonuku
2011年09月01日(木) 01時41分
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